Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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3.<生体政治工学的介入>の「意識化」過程の分析論

【基本テーゼ】:以後の記述において「意識化」とは、その都度の記述遂行過程――同時に記述生成過程でありその記述の文脈生成過程――の主体としての個人(以後この意味での個人を「個人=記述主体」と表記する)にとって任意の様態における記述可能な形での対象化が生成しているという事態を含意するものとする。なお、上記任意の様態における対象化は、「不安」等の記述様態における「気分」の(としての)対象化・「刺すような痛み」や「鮮やかな赤」等の記述様態における「感覚」及び「知覚」の「クオリア[質感]」の(としての)対象化(ただしこの「クオリア[質感]」は、「感覚」及び「知覚」以外の「気分」「感情」「情動」等の記述様態にも適用可能な言わばメタカテゴリーの位置を占めている)・「悲しみ」等の記述様態における「感情」の(としての)対象化・「興奮」等の記述様態における「情動」の(としての)対象化を含む。
言い換えれば、ここでの「意識化」は、つねにすでに起こってしまっている出来事すなわち任意の現実の記述行為(あるいは言表行為)――同時に記述生成過程でありその記述の文脈生成過程――として、その過程の遂行主体である個人=記述主体によって事後的に見出される他ないものとして、「気分」、「感覚」及び「知覚」の「クオリア[質感]」、「感情」、「情動」といった任意の記述様態における対象化が生成しているという事態を含意している。

上記基本テーゼを前提とした上で分析対象とする記述事例[1]:
「(生まれた子どもが)世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う。延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」
まず、「子どもが世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述は、他者の、または自分自身の子どもに関して、何らかの<生体政治工学的介入>を行うことをも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような「医学の進歩」によって、必ずしも「喜びや希望がある」とは言えない生がもたらされる可能性も考えられると分析される。
ここで、「そればかりではない」という記述は、<生体政治工学的介入>による効果(概ねここでは「医学の進歩」と等値され得る)=Aが、「喜びや希望をもたらす=X」という属性を持つかもしれないが、「それ=X以外の何か<non-X>」の属性をも持つのではないかという判断を表出している。言い換えれば、ここでは「A=X」と判断し得る可能性と「A=<non-X>」という判断――ここでの「A=<non-X>」は、X以外の非限定領域を肯定する無限判断であり、「A= non(not) X」という与えられた限定領域内部における否定判断とは異なる――とが並置されている。すなわち、「A=X」かもしれないが「A=<non-X>」でもあり得るということである。
これまでの論述において、このX以外の非限定領域を肯定する無限判断の領域――すなわち非限定無限(判断)領域(=non A)――は、以下のように分析された。
[1]象徴的レベルとしての任意の形式あるいは枠組み内部の<意味されるもの>――任意の価値内容あるいは価値尺度――の記述領域(=A)を逸脱する領域として、言い換えれば任意の形式あるいは枠組みに亀裂を穿ちそれを空無化する領域として
[2]<人間の身体>領域との間の<識別不可能な>固有領域をも逸脱する「欲動」の生成フィールドとして
ここでのポイントは、この「A=X」と「A=<non-X>」の「並置」という事態――すなわち「A=X」かもしれないが「A=<non-X>」でもあり得るという判断の様態――は、「必ずしも個人=記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)されない様態」という事態に対応すると考えられるということである。言い換えれば、「A=X」かもしれないが「A=<non-X>」でもあり得るという判断の様態は、必ずしも記述へともたらされ得る――あるいは記述へともたらされた――様態で対象化(意識化)され得ない。


次に、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という記述は、「延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか」と言い換えることができる。
ここで、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う。延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という一連の記述を次のようにパラフレーズすることができる。すなわち、『他者の、または自分自身の子どもに関して、場合によっては何らかの<生体政治工学的介入>を行うことをも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような「医学の進歩」によって、必ずしも「喜びや希望がある」とは言えない生がもたらされる可能性も考えられる。――以上をさらに言い換えれば、場合によっては何らかの<生体政治工学的介入>を行うことも想定した「延命方法」による難病の克服等の喜びや希望もあり得るが、他方、それにより必ずしも喜びや希望があるとは言えない生がもたらされる可能性も考えられる。だが、延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか』という形にパラフレーズ可能である。
上述のように、高度な<生体政治工学的介入>という意味で「延命」を考えるなら、そうした「延命」が、同時に個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないというどのような「延命状況」が想定可能であり、仮にそうした「延命状況」が想定可能だとした場合、その「延命状況」が、同時に「ひとつの生に対して純粋に受けること」でもあるという事態をどのように考えればいいのか。
「純粋」という表現に関する記述主体のイメージがどのようなものであれ、おそらく現実的な「延命状況」としては、その「純粋」という表現が、あらゆる高度な<生体政治工学的介入>の「不在」という事態を指示することはあり得ない。であるなら、ここでは、高度な<生体政治工学的介入>としての「延命」が同時に「純粋」な状態=Xでもあり得るという事態は、必ずしも記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)されない様態において想定されているといえる。
[注]
言い換えれば、ここで想定されている事態は、意識化(記述可能な形での対象化)のレベルという先の観点から見るなら、次のように考えることが可能である。
この場合、「延命」という事態=Aは、「高度な<生体政治工学的介入>=X」という属性を持つかもしれないが、「それ=X以外の何か<non-X>」の属性、言い換えれば、純粋な「<生体政治工学的介入>の不在」としての、「ひとつの生に対して純粋に受けること」という属性をも持つのではないかという半ば無意識の判断が表出されている。この場合も、「A=X」と判断し得る可能性と「A=<non-X>」という無限判断とが並置されている。すなわち、「A=X」かもしれないが「A=<non-X>」でもあり得るということである。
以上から、先の「つまり」という言葉は、それ自身の前後の文または記述がそこにおいて生成する文脈を整合的に分析可能なものとして決定する力を持っていない。むしろこの言葉は、これら記述同士の<間>に生成する、この記述を行った個人=記述主体の経験を表現している。
これまでの分析の成果として、それぞれの個人=記述主体に関して、ある一定の「自らの価値観」がそれを通じて個人=記述主体にとって記述可能なものとして生成するような、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の分析作業が課題となる。
[注]

分析対象となる記述事例[2]:
「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか。生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」
ここでは、「技術的に作られた生」は必ずしも完璧ではないのではないかという懐疑が記述へともたらされている。まず、この個人によって、<生体政治工学的介入>としての生殖技術が、その社会的効果において世代間連鎖する可能性が着目されている。すなわち、この連鎖によって、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という「必要性」が暗黙の社会的強制力として作用する可能性が記述されている。
言い換えれば、ここでは、私たち個々人が、いったん<生体政治工学的介入>によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは、さらにはそれ以外の社会の成員も、技術的な子どもの生産という「強制力を持った必要性」を有する社会的制御過程(social control process)のもとへと組み込まれるのではないかという認識の端緒が記述されている。
[注]
以上のような分析をベースとして、ある個人=記述主体が何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる道、すなわち個人=記述主体が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程を想定することが可能になる。その都度生産される個々の記述においては明確な文脈が不在であるように見えても、それら記述がさらに別の記述へと接続していく展開過程を追跡=分析することにおいて、何らかの文脈の生成過程を遡行的に垣間見ることがあり得る。
「ある個人=記述主体が何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる道、すなわち個人=記述主体が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程」という先の表現は、個人=記述主体が何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)にいたる過程それ自身は、リアルタイムで(同時並行的に)その個人=記述主体によっては意識化(記述可能な形での対象化)されないということを意味する。さらに言い換えるなら、記述主体による記述過程それ自身のリアルタイムでの(同時並行的な)記述は端的に不可能である。上記の事態は、カントによって定式化された超越論的統覚の総合的統一の根源性――超越論的統覚の総合的統一という働き(Aktus)=過程はそれ以上遡行不可能な位置を占める――という事態に相当する。
[注]
さらに、こうした無意識の過程を通じて得られた<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)は、個人=記述主体によってそうした<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)を表出していると見なすことができる記述がなされた後ですら、必ずしもその個人=記述主体によって意識化(記述可能な形での対象化)され得ない。このように述べることは、個人=記述主体によって産出された記述としてそれ自体としては対象化されているにもかかわらず、しかもその個人=記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)され得ず無意識に留まる<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成という一見自己矛盾的な事態を認めることになる。以上の事態は、個人=記述主体によるその都度の記述行為(の遂行)は、その個人=記述主体による意識化(記述可能な形での対象化)にとって、必ずしも十分な条件ではないということを意味する
[注]
他方、この個人=記述主体が、リアルタイムでの(同時並行的な)記述行為という端的に不可能な形ではなくても、上記の無意識の過程を意識化(記述可能な形での対象化)していく過程を想定することもできる。すなわち、ある個人=記述主体が何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる無意識の過程が、この個人=記述主体にとって何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる道としての意識化(記述可能な形での対象化)過程ともなるということである。上述の「ある個人=記述主体が何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる道、すなわち個人=記述主体が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程」という表現が指示する事態は、この意識化過程のことでもある。
他方、ある<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる意識化(記述可能な形での対象化)の過程が、ある別の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へと向かう無意識の変容・分岐の過程を生成することがあり得る。この変容・分岐の過程は、ある別の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へと向かって生成する創発的な過程である。この過程は、ある判断や認識の無意識の生成過程であり、その意識化の過程でもあり、さらに他の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へと変容・分岐していく無意識の創発過程であるといえる。
[注]
ところで、私たちは、個々人がある<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へといたる意識的かつ無意識的な過程が、ある別の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)へと向かう意識的かつ無意識的な過程へと変容し分岐していくという事態の<総体>を、何らかの因果的関係のもとで認識(整合的に記述)する力を持っていない。既述のように、私たちは、その都度生成された個々の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成過程それ自体に関する認識、言い換えればメタレベルにおける(同時並行的な)記述を成し得ない。また、想定され得る任意の生成過程において、複数の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成過程が変容・分岐しつつあったとしても、それら複数の生成過程相互の関係へといたる認識、あるいはメタレベルにおける(同時並行的な)記述を成し得ない。
[注]
私たちは、ある<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成過程と、ある別の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成過程とは、何らかの偶然的な創発過程として互いに関係づけられていると推測することはできる。だが、ある<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成が他の<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)の生成の「きっかけ」となるという(その都度の生成に対して事後的にしか記述し得ない)事態は――ある固有な記述(系列)の生成としての――任意の個人にとって予測不可能な偶発的出来事である。
[注]
次に、「ひとつの生に対して純粋に受けること(の大切さ)」、「技術的に作られた生(の完璧さに対する懐疑)」、「生きること以上の欲はない」といったそれぞれの記述は、<総体>として一定の文脈を形成しているというよりも、むしろそれぞれが新たに分岐した生成過程において創発されたと捉えることができる。このように捉えた場合でも、その都度何らかの無意識の文脈の生成過程が想定され得るし、またそうした文脈の意識化過程も同様に想定され得る。だが、この文脈を何らかの<判断や認識>(整合的に記述可能な形での対象化)という様態で意識化することは困難である。こうした分析結果は、あくまでも当該の分析対象に関する暫定的なものであり、直ちに普遍化可能なものとして得られたものでもない。しかし、この分析結果を以下のように普遍化することができる。
すなわち、文脈の生成という事態は、無意識的なものであり、同時に――ただしこの「同時に」とは、「メタレベルにおける同時並行的な」という先に検討した含意を持たない――意識化され得るものであった。だが、それだけに、何らかの(様態における記述の生成としての)文脈の生成は、この私にとってリアルなものである。無意識的なものであり、同時にリアルなもの――対象化可能な記述――として意識化(記述可能な形での対象化)され得るというこの文脈の二重性(あるいは多重性)が、私たちの生存の根底において見出された。
[注]

分析対象となる記述事例[3]:
「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる。しかし、親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない。技術的なことを加えるよりその選択もありではないかと思う」  
「障害を持った生を自ら肯定すること」への着目は、このような個人の生に対する肯定的な構えの現われであり得る。だが、他方、障害を持つ本人による肯定とは別に、親の選択としては、「技術的なことを加えるより」――すなわち、出生を前提とした出生前の<生体政治工学的介入>という選択肢を取るよりむしろ――出生それ自体の予防という選択肢を取ることも否定できない(「その選択もありではないか」)と分析され得る記述がなされている。
ところで、この「その選択もありではないか」という記述が生じた文脈は、個人=記述主体によって、次のような過程において意識化(記述可能な形での対象化)され一定の記述として生成してきたと考えられる。
まず、技術的に作られた生に対する「懐疑」の意識化(記述可能な形での対象化)の高まりが、「技術的なことを加えるより」という表現として記述されている。ここで、「技術的なことを加える(こと)」とは、出生を前提とした出生前の<生体政治工学的介入>であると考えられる。この<生体政治工学的介入>によってもたらされる、技術的に作られた生に対する懐疑の意識化(記述可能な形での対象化)が進むとともに、<生体政治工学的介入>によってもたらされる、技術的に作られた生という事態に対する負の価値付け(を伴う記述過程)がもたらされる。そしてこの<生体政治工学的介入>との対比において、先の「親の選択としては否定できない」(「その選択もありではないか」)という記述が生成されたといえる。
ここで気づくのは、「出生を前提とした出生前の<生体政治工学的介入>という技術的な付加よりも受精卵を選別・廃棄すること(出生の予防)の方がまだしも許容され得る」という記述が、生殖細胞系列に対する遺伝子レベルでの技術的介入の肯定を表現しているということが、この個人によって意識化(記述可能な形での対象化)あるいは認識(整合的に記述)されてはいないということである。
ここで、「この私の記述自身が位置する文脈生成過程」の認識(整合的な記述)が困難であるからこそ、「出生を前提とした出生前の<生体政治工学的介入>よりも受精卵の選別・廃棄の方がまだしも許容され得る」という記述がありふれたものとして生成するという仮説を提起することが可能である。
もしこの個人が、自らの認識(整合的な記述)の生成過程を意識化(記述可能な形での対象化)していたとすれば、この個人=記述主体は、出生を前提とした出生前の<生体政治工学的介入>と受精卵の選別・廃棄を「生殖細胞系列に対する遺伝子レベルでの技術的介入」という同一の認識論的座標軸において位置づけ得たはずである。言い換えれば、前者よりまだしも後者が許容され得るという記述は、この同じ個人=記述主体によって整合性を欠くものとして意識化(記述可能な形での対象化)あるいは認識(整合的に記述)されたはずである。
だが、この個人=記述主体が、上述の「整合性の欠如」を認識し得たかそれとも認識し得なかったかという二者択一的問いは、分析にとっては決定不可能なものにとどまる。その意味で、ここで意識(認識)の整合性の欠如を単純に想定することはできない。
ここで私たちは、この個人=記述主体の一連の記述が関係付けられる文脈の生成過程において、出生前の<生体政治工学的介入>か受精卵の選別・廃棄かという上記二つの選択肢がともに生殖細胞系列に対する技術的な選別・加工であること――換言すれば、「生命の選別操作」という概念に包摂されること――の認識(整合的な記述)が生成しているともいえる。少なくても、先の一連の記述が関係付けられる何らかの文脈の生成過程において、こういった認識(整合的な記述)がこの個人=記述主体にとって端的に不可能であったと言い得る根拠は見当たらない。従って、先の一連の記述に関して、この個人=記述主体は、まさに上記のような認識(整合的な記述)への到達過程において「親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない」と記述していると想定することも可能である。ここで「上記のような認識への到達過程において」という表現は、言うまでもなく、メタレベルにおける同時並行的な認識過程という端的に不可能な事態を意味するのではなく、むしろ、この個人=記述主体が上記のような認識に関わる整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識的かつ意識的な過程――既述の「意識化の過程」――を意味している。
以上のような分析を前提するなら、この個人=記述主体に関して、「親としての不安」を抹消することができないであろうある個人=記述主体(この個人=記述主体にとっての他者)による「出産をあきらめる」という意思決定=選択行為を、たとえそれが生殖細胞系列に対する技術的な介入を手段とするものであったとしても、「事実」として「完全否定できない」と判断(整合的に記述可能な形での対象化)していると分析することも可能になる。
なお、先に考察したように、この「事実」は、こういった意思決定=選択行為としての生成過程の総体が、その現実の遂行過程における記述可能なものとしての対象化を通じて、任意の個人=記述主体の「価値観」を同時に生成させるという事態を含む。この意味における「事実」がその<効果>として生成される無意識的かつ意識的な文脈生成過程は、絶えず変容し分岐する生成システムとして、ある個人=記述主体の記述行為の連鎖において掘り起こされ再構成され得る。言い換えれば、意思決定=選択行為としての生成過程が個人=記述主体の「価値観」を生成させる無意識的かつ意識的な文脈生成過程は、絶えず変容し分岐する生成システムとして、その個人=記述主体の記述行為が生産する記述群の連鎖において掘り起こされ遡行的に再構成され得る。
[注]

4.<理念>の分析論
分析対象となる記述事例[1]:
現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか。遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか。
子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子どもを「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子どもを「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子ども自身の人権は守られるか。
この事例では、分析を通じて整合的なものとして位置づけられ得る<理念>が想定され得る。そこで、記述の文脈生成過程の分析を通じて、この想定された<理念>を焦点化することを試みる。先取りして述べるなら、分析作業を通じて、この<理念>の整合性に内在する創発過程の偶発性が焦点化されることになる。
まず、この記述における「差別(的)」という表現に対応する概念の内包の分析作業を括弧に入れるなら、この記述は上述の意味における<理念>を背景とした批判的懐疑を表現していると捉えることができる。ここで、想定された<理念>あるいはその<理念>の整合性が位置するレベルが問われなければならない。さらには、ある個人=記述主体が、この<理念>との関係において批判的懐疑を記述するとはそもそもどのような事態なのかという問いが浮上する。
ここで<理念>を、何らかの認識(整合的な記述)が、任意の個人=記述主体の記述として生成し得る場すなわち文脈生成過程の仮想的な<総体>と規定する。言い換えれば、<理念>とは、任意の個人=記述主体による複数の(可能的には無際限の)記述の整合性が――すなわち整合的な記述としての何らかの認識が――そこにおいて可能になる場としての文脈生成過程の仮想的な<総体>である。
[注]
ところで、「属性の階層序列化」は、「属性の階層序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存の階層序列化」をも意味する。すなわち、属性を階層序列化する価値観は、生存それ自体を階層序列化する価値観でもある。さらに、他の任意の個人との間で任意の属性が序列化された個人の生存は、他の任意の個人の生存との間で序列化された個人の生存として意識化(記述可能な形での対象化)される。
[注]
そのような価値観が偏在する社会では、「何らかの遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患」という属性を持った人の生存が、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」として階層序列化される。それと同時に、そうした属性を持つ者が、「本来は遺伝子改変によってそうした属性が消去され得た(消去されることが望ましかった)者たち」として集団的に認知される。
さらに言い換えるなら、以上のような価値観は、「遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べてより価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という記述によって表現される社会的強制力のもとにある。現実には遺伝子の改変・治療・予防・発生の予測等が不可能であったとしても、単なる技術的可能性の想定において、本来はその出生(生存)自体が予防され得たという階層序列化が生じ得る。
[注]
ところで、既述のように、個人=記述主体の意思決定=選択行為に先立って、それを導く何らかの個人=記述主体の価値観があらかじめ存在しているのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、その個人=記述主体の価値観が何らかの様態において生成したと記述することができる。すなわち、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を、個人=記述主体が記述可能なものとして捉えたときに、その個人=記述主体にとって「自らの価値観」が生成する。このとき、記述可能なものとして捉えられた個人=記述主体の意思決定=選択行為は、同時にこの個人=記述主体の価値観を表現する意思決定=選択行為として記述することができる。
既述の「生存それ自体を階層序列化する価値観」は、あくまでも一般性の地平(社会的強制力の次元)において想定されたものとして、上記の「自らの価値観」とは異なる。言い換えれば、先の「遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べてより価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という記述の潜在的な記述主体は、その都度焦点化される意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人=記述主体としての<私たち>である。
[注]
ここで、先にも触れた「個々人の選択に際して、技術的な力によってコントロールされた出生の「必要性」が社会的強制力として作用する」という論点が再び浮上する。すなわち、私たち個々人が、いったん何らかの<生体政治工学的介入>によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは、さらにはそれ以外の社会の成員も、「技術的な子どもの生産」という強制力を持った必要性を有する社会的制御過程のもとへと組み込まれてしまうという可能性に照準した論点である。「何らかの遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患」という属性を持った人の生存は、社会的に「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力が生じる場合、「差別的な扱いが増す」という事態は、こうした(おそらくは暗黙で無意識的な)強制力の効果として捉えることができる。
先の事例における第二文の「遺伝子疾患以外の先天性(出生以前の何らかの要因に由来する)疾患」という表現の具体的内容を特定することは難しいが、上記のように、一般に遺伝子レベルでの改変・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例を想定したものだとした場合、第一文と同様の一貫した<理念>に基づいた批判的懐疑として捉えることが可能である。先に述べたように、現実には遺伝子レベルでの改変・治療・予防・発生の予測等が不可能であったとしても、単なるその技術的可能性の想定において、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」という序列化は可能である。従って、あらゆる先天性疾患に関して、上記第一文と第二文を通じて一貫した<理念>――生存それ自体を階層序列化する価値観に対する整合的な批判(または批判的懐疑)が、任意の個人=記述主体の記述として生成し得る場=文脈生成過程の仮想的な<総体>――を想定することができる。
[注]
次に、「子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子どもを「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子どもを「作る」という意識は子どもが親の所有物であるような意識につながりやすい。子ども自身の人権は守られるか」という記述の含意に関しても、上述した生存それ自体を階層序列化する価値観に対する一貫した<理念>を意識化(この個人=記述主体にとって記述可能な形での対象化)したものと捉えることが可能である。
私たちは、ここでは仮想された<理念>それ自体を抽出する作業はしない。その理由は、「仮想された<理念>それ自体」というレベルが、その都度の記述を織り成す文脈の生成過程に先立ってどこかに存在しているわけではないからである。既述のように、<理念>とは、任意の個人=記述主体による複数の(可能的には無際限の)記述の整合性が――すなわち整合的な記述としての何らかの認識が――そこにおいて可能になる場としての文脈生成過程の仮想的な<総体>を意味する。この場=文脈生成過程は、これも既述のように、想定された事例に関して遂行されるその都度の分析作業から離れて、あたかも事例としての記述がそこへと置かれる場が事例に先立って存在するかのように、あらかじめ想定することはできない。複数の(可能的には無際限の)記述が<理念>を共有するというこれまで分析的に抽出された事態は、より根源的には、そこにおいて複数の(可能的には無際限の)記述を織り成す一貫した文脈が生成される、その都度の偶発的な創発過程なのである。[注]

分析対象となる記述事例[2]:
 子どもが健やかに成長することはすべての親の望みである。しかし、成長とともに難病などになってしまうと分かっているからといってその子の尊厳自体がなくなるものではない。生きることのすばらしさが別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない。
確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自身が持てることから発生する部分もあるとは思えるが、しかし、真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受けとめ、生きることのすばらしさを発見するところにあると思う。人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにあるのではないかと思う。
(空白)
この記述における、子どもという他者の他者性に対する顧慮の生成過程は、無意識的な過程であると同時に、その生成過程の――「子どもという他者の他者性に対する顧慮」という偶発的な様態における――意識化の過程でもある。言い換えれば、この無意識的な過程が、個人=記述主体にとって子どもという他者の他者性に対する顧慮の生成過程であったと言えるとすれば、それはこの過程が、この個人=記述主体にとって事後的な記述が可能であったという意味において同時に偶発的な意識化の過程でもあった場合であろう。偶発的であるということは、この過程が、必ずしも「子どもという他者の他者性に対する顧慮」という様態において意識化された(記述可能なものとなった)とは限らなかったということを意味する。
[注]

5.<記述可能性の空間>の生成過程
分析対象となる記述事例[1]:
染色体異常の難病など、遺伝による病気が治せればいいなという期待もあるけれど、生命に関わることなので、倫理観が問題。手を付ける前に、その問題をはっきりさせたい。
技術的な可能性だけで話を進めると、クローンの領域にまで行ってしまう。SFの世界が現実になったら恐ろしい。人類滅亡への道を加速させてしまう。
遺伝子操作は、どこまで許されるのか。社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想が垣間見える。
この記述において、難病予防への「期待」と「(生命に関わる)倫理観が問題」という両方向へと分岐した表現が見られる。しかし、「無意識の葛藤」は、ここでは表出されてはいない。つまり、この表現の分岐は、必ずしも無意識の葛藤に対応するものではない。むしろ、無意識の葛藤は、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化(記述の生成過程を経ること)によってあらかじめ回収されている。「手を付ける前に」という表現から、<生体政治工学的介入>に対する肯定的なベクトルの方がより強いように見える。だが、ここでは、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化(記述の生成過程を経ること)によって、<生体政治工学的介入>に関わる判断は保留されている。また、「手を付ける前に」という表現が、「手を付けること」=<生体政治工学的介入>をどこまで前提としたものなのかは分からない。さらに、「手を付けること」の内実がどの程度意識化(記述可能なものとしての対象化)されているのか、具体的にイメージされているのかも不明である。
しかし、その記述可能なイメージがどのようなものであれ、<生体政治工学的介入>に「手を付ける前に、(生命に関わる)倫理観の問題をはっきりさせたい」という明確な問題提起を行っている以上、この個人=記述主体によって「手を付けること」の内容までもが言語化されている必要はない。ここで重要なことは、無意識の葛藤の言語化(記述の生成過程を経ること)によって、その葛藤が社会的言説の地平において露呈可能なテーマへと変換されるということである。これが、先に述べた言語化(記述の生成過程を経ること)によるあらかじめの回収という事態の意味である。言い換えれば、「(生命に関わる)倫理観が問題」といった言葉を発明または発見すること(記述の生成過程を経ること)が、問題の社会的言説の地平における露呈という事態への通路を切り開くことになる。
[注]
例えば、かつて「生命倫理(Bioethics)」という言葉が発明または発見されたときに生じた文脈生成の場面が類比的に想起される。以来、その是非は別として、「生命倫理(Bioethics)」という言語化による多様な事象の回収が生じることになった。そもそも、古いものから新しいものまで、「医学」や「心理学」、「バイオインフォマティクス (Bioinformatics:生体情報学)」等の学問・研究領域の名称は全てそうであるが、そういった言葉の発明または発見は、あらゆる事象の統御・操作・予測可能性の領野(記述可能性の空間)を切り開くということは今さら言うまでもない。
この個人=記述主体によって提起された問題は、例えば、「<生体政治工学的介入>という行為は、一切の留保条件なしに却下されるのではなく、生命に関わる倫理観の問題をクリアした厳しい拘束条件の枠組みにおいては遂行され得る」といった言説の生成過程における拘束条件の決定という問題として読み替え可能である。
この個人=記述主体の記述によって、「<生体政治工学的介入>は条件付で是認可能」という立場が任意の第三者にとっても意識化(記述可能なものとしての対象化)可能なものとなっている。その意味で、この記述は、これまで多くの事例で見られた無意識の葛藤を社会的言説の地平において露呈させるという事態へと道を開いている。
[注]
次に、「技術的な可能性だけで話を進めると、クローンの領域にまで行ってしまう。SFの世界が現実になったら恐ろしい。人類滅亡への道を加速させてしまう。遺伝子操作は、どこまで許されるのか。社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想が垣間見える。」という記述は、先の記述によって切り開かれた社会的言説のシミュレーション(記述可能性の領野における先取り)であると言える。ここでは、「遺伝子操作は、どこまで許されるのか」という問いかけにより、先の「<生体政治工学的介入>という行為が是認されるにせよ却下されるにせよ、是認や却下に関わる原理・原則や拘束条件がどのようなものになるのか」という「生命に関わる倫理観の問題」を考えようとしている。もちろん、単純に「<生体政治工学的介入>は条件付で是認可能」という立場を取っているわけではない。
むしろ、それに引き続く「社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想」という言葉は、「技術的な可能性だけで話を進める」ことへの明らかな批判である。ここでの「話を進める」こととは、社会的言説の地平における露呈という可能性をあらかじめ回避したものとしてイメージされている。それは、先の事例における「誰かが、生きることを操作している」という表現の匿名の主語、すなわち「誰か」たちだけが決定するということである。
[注]このような風景は、私たちにとって見慣れたものではあるが。


Footnotes:
[注1]ここで「生殖細胞系列」とは、有性生殖のための配偶子すなわち卵子、卵細胞、精子、精細胞、無性生殖のための胞子、またそれらの元となる細胞としての生殖細胞の総称という意味を持つ。
[注2]ここでの<生体工学的介入>には、いわゆる「脳コンピュータインターフェイス(Brain-machine Interface : BMI)」を核とするサイボーグ技術による任意の介入も含まれるが、その場合、<脳あるいは神経細胞システム領域=生体領域>と<コンピュータ領域=非生体領域>という二項対立図式はここでは端的に前提不可能である。
[注3]ここでの<記述群>という用語は、既述の<我々自身の無意識>という文脈生成を媒介するレベルを焦点化した記述行為=言説実践の分析論という方法論的規定における集合的分析対象としての記述行為=言説実践を意味する。すなわち、以下に提示された<記述群>は、この意味における記述行為=言説実践の事例であり、これら対象化された記述行為=言説実践の一定の集合としての<記述群>が以後の本論の展開過程において分析されていくことになる。

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